幸せなマルチワーク・複業の「はじめの一歩」を踏み出す人のためのJOUNAL ”強み”×”独自コンセプト”×”商品開発”

自分の好き・強みを活かして個人向けにコーチ、カウンセラー、コンサルタントなどの対人支援ビジネスを始めたい方向けに、「人間性の活性化」と「未来をつくる商品戦略」の2つの軸からあなたの独自コンセプトと商品ををつくって、確かな人生の方向性を得るための場をつくります。

大好きなことや才能といえど、マーケットからは逃れられない?

あなたが提供するものは”市場(マーケット)”にさらされる

 

 あなたが大好きなことや自分の才能を活かして、人に何かを提供しようとした場合、

必ずそれを受け取ってくれる相手が必要になります。それは、あなたが提供する商品やサービスを欲しいと感じる人が必要になるということです。

 そして、もしあなたが提供する商品やサービスと似たようなものが、すでにこの世の中にあるようなら、そこにはあなたが提供する商品やサービスなりの「市場・マーケット」が存在していると考えてよいでしょう。

 例えば、自分が実際の仕事で培って結果を出してきたプレゼンテーションスキルを、誰かにコンテンツとして教えようとした場合を考えてみます。この場合、世の中の本屋さんにはすでにプレゼンテーションスキルの本が並んでいるわけですから、プレゼンスキルを学びたい、知りたいという人たちが一定数いることがわかります。

 つまり、言い換えると、プレゼンテーションスキルを学びたい人たち(需要)とプレゼンテーションスキルを提供する人たち(供給)が世の中には存在していて、その両者によって「プレゼンテーションスキルに関する市場」が存在するということです。

 

 もしある人の才能が「人に上手に説明し、人の心を動かす話し方ができること」だったとしましょう。その人が自分の才能を活かして、人に何かを提供しようとした場合、大きく分けて2つの道があります。

 1つは、自分で直接プレゼンテーションのスキルを、知りたい人に伝えるビジネスをすること。要は、市場において自分が供給者そのものになること。

 もう1つは、自分では直接プレゼンテーションスキルを、知りたい人に伝えるビジネスをするのではなく、研修会社などの企業に所属することによって、その企業を通してビジネスの一部を担うということ。これは、市場において、その人は供給者の一部になるということです。

 自分の才能を活かして人に何かを与えるときに、この立ち位置の違いは理解しておく必要があります。市場の供給者になるということは、立場上はビジネスオーナー、起業家を含む会社経営者または自営業者・フリーランスという立場になります。一方で、企業に所属して市場に価値を提供するとき、それは正社員、派遣社員、アルバイトなどの名称の違いはあれ、従業員という立場になります。

 

 

やりたいことをどのように社会に提供していくか

 

 自分の大好きなことや才能が見つかった後に、どのようにして人に提供するか考えるときには、市場に直接関わるか、企業を通して人に関わるか、よく考えることが必要でしょう。

 ただ、好きだけどまったく自分が経験のない分野であったり、才能らしきものはあるけど磨かれきってないときは、どこかで修行が必要かもしれません。自分が人に提供するものを磨いて価値を高める機会がある場所を探すことが大切です。それが企業のある仕事を通して高められるのであれば、そこを目指して行ってみるのもいいでしょう。

 一方で、もうすでに企業で十分に自分の大好きなことや才能を磨いた人は、企業から外へ出て、直接お客さん(カスタマー、需要者)に自分の商品なりサービスを提供する可能性も見えてきます。あなたが取り組んできた分野がメジャーなものであれば、そこには横を向いたら競合するライバルがたくさんいるかもしれません。

 

 

「自分が提供するもの」と「人が求めるもの」との間で

 

 「自分が大好きなことをやって人に喜んでもらいたい」「自分の才能を活かして人の役に立つ」こうした目標を掲げたとしても、当然のことながら自分1人では実現することはできません。自分が提供したものを受け取ってくれる誰かが必要になります。

 そこでは、自分がいいと思うだけでは相手にその価値は伝わらず、自分がいいと思い、かつ、相手にとってもあなたが提供するものに価値があると思ってもらうポイントを見出すことが大切です。つまり、焦点を絞って小さくみていくと「与える私」と「受け取ってくれるあなた」との関係に凝縮されます。

 だからこそ、どれほど自分がいいと思う商品・サービスでも、相手がいる以上は、改善が必要になる。あなたが大好きなことや才能を提供するときに、それは市場(マーケット)さらされて、市場から逃れることはできないでしょう。

 

 

 

 

 

自分のやりたいことを考え過ぎてわからなくなったときに。

よく頭で考える人、思考力のある人、頭のいい人は、あたまに意識がいきがち

 

 「自分のやりたいことは何か」と知ろうとすると、ついつい頭で考えてしまいます。

過去にうまくいったことや自分の才能がなんだったか、ついには今お金になりそうなこと、みんなやっていることにまで、最終的には行き着いてしまうことがあるかもしれません。

 物事を論理的に考えて行くのが得意な人は、考えてやりたいことを見つけようとしがちです。また、段取りが得意な人も先のことを考えて行くので、やはり頭で考えるのが得意なタイプでしょう。

 こういった、あなたがよく考える力のある人、思考力のある人であれば、自分のこの能力を使ってやりたいこと自然と探すでしょうが、なかなか見つからないかもしれません。

 なぜ頭で考えても、やりたいことが見つからないのか?

 それは、「やりたいこと」は自分の心で感じるものだからです。

 

 

体の感覚と、”いま”に意識を戻す

 

 では、どうすれば頭に登ってしまった意識から離れて、心で感じることに切り替えることができるのでしょうか。

 私も頭で考える傾向がありますので、よく頭で考えでしまうことがあります。

 そんなときは、どうしているか。私が心で感じる方へちょっと自分を戻すのにやっていることも含めて、ご紹介します。

 

① 深呼吸する

 深呼吸すること。大きく息を吸って、少し止めて、ゆっくりと吐き出す。これを目をつむって何回か繰り返します。できれば、部屋の窓を開けて、外の空気を入れて部屋を換気すると気持ちが切り替えられるかもしれません。

 イメージするのが得意な人は、今まで行ったことのある綺麗な景色や、その時の日差しや雨の匂い、風の肌触りなんかが思い出せたらより良いでしょう。簡単なことですが、真剣にやってみると体全身がリラックスしてきます。

 

② 歩き回る

 考えるときは、止まっていることが多いのではないのでしょうか。

 部屋で考えているときは、もし歩けるなら、椅子から立って、大きく伸びをしてから、周りを歩いて見ましょう。裸足でも靴下を履いていても、足の裏で床を感じますか。普段全く意識していないことでも、ちょっと意識することで感じることができるようになるはずです。

 

③ 書く

 これは、頭を使っているじゃないか、と言われるかもしれません。

 確かに、考えながら書くとそれはまた頭で考えることになってしまいます。なので、ここでいう「書く」とは、「書き出す」と言う感覚です。ここで自分が書いたものを誰か人に見せるわけではありません。なので、誰か人に向かって文章を書く、と言うよりは、「吐き出す」感じでやるのがいいでしょう。

 または、頭というより、心の動きを感じるために、手にそのまま動いてもらって書貸せる感覚で書くのもいいでしょう。ポイントは、頭ではなく、自分の気持ちや感情に意識のフォーカスを当てることです。

 

④ 声に出して、話す

 家で1人でいるのなら、自分の思ったことや感じたことを、声に出して話すのもいいでしょう。誰か相手が必要なわけではありません。独り言でも構わないので、自分の思っていることを声に出すことが重要です。

「俺は、こう思うんだけどな」「私はこんな感じがする」というので構わないので、自分の思っていること感じていることを声に出す。そうすると、頭の中や胸の中で溜まっていた思考や感情も、自分の内側から外側に出ます。

 もしうまく言葉にできないなら、「こんな感じ」とか、短い言葉、単語でもいいでしょう。

 

⑤ 寝る

 頭でいろいろ考えてもわからないときは、寝てしまうのもいいでしょう。上に挙げた①から④など、自分の頭から意識を離す方法を試してもうまくいかないときは、寝てしまえば、次に起きたときは幾分かは頭も休まっているでしょう。

 

 上にあげた5つの方法を実際に試してみれば、人によって効果は様々でしょうが、幾分かは頭に行った意識が、体の感覚だったり、自分の気持ちだったりに戻ってくる感じがわかるかもしれません。

 「やりたいこと」は、人の気持ちや感情に基づくものです。あたまで考えることは、気持ちにフォーカスすることとは異なります。身体感覚や自分の感情に意識を向けることで、自分のやりたいことが自然と湧き出てくるかもしれません。

 

と、ここまでが頭で考えすぎてやりたいことがわからなくなったときの対処法です。

では、実際にやりたいことを感じ取るにはどうすればいいのでしょうか。

 

 

 

 

「自分のやりたいこと」と「社会が求めるもの」との境界はどこか

自分のやりたいことを、しっかりと認めてあげる

 

 あなたがやりたいことは、どんなことでしょうか。あなたは仕事を始めるようになってから、その業務やビジネスをうまく行かせることにエネルギーを注いできたと思います。毎日仕事に集中して取り組んで、自分が何をやりたかったかなんて、今は忘れて、うまく思い出せなくなっているかもしれません。

 しかし、「こんなことしてみたい」「こんなことできたら毎日楽しいだろうな」と思ったことはなんでしょうか。あなたが、昔からやってみたかったことは何でしょうか。

 

 かつては毎日のように考えていたようなことが、誰にもあるはずです。それが、小さい頃なのか、学校に入ってからなのか、それとも社会人になってすぐの頃なのか。

 けれど、学校に入って勉強をしたり、企業に入って仕事をするうちに、外から求められる「やるべきこと」や「やったほうがいいこと」をやっているうちに、やりたかったことができなくてなってしまったものがあるかもしれません。本当はとっても大好きなことがあって、時間を忘れるくらい没頭することや普段使うお金を節約しても何かしたかったことがあったはずです。

 

一旦は諦めて忘れてしまったこと、もう考えるのはやめよう、思ったのに何度も頭に思い浮かぶものはどんなことでしょうか。誰かが楽しそうにやっているのを見て心がざわつくものは何でしょうか。自分ならもっとうまくできると思うのに、失敗が怖くてやっていないことは何でしょうか。

 

 もしそれが、人から評価されるようなことではなかったとしても、あなたがそれを「やりたい」「やってみたい」という気持ちがあれば、その気持ちに素直になることが、自分を大切にすることです。

 より自分自身の思いや気持ち、やりたいことややってみたいこと、または才能や得意なことを自分の中でしっかりと握って、手放さないようにすることが、あなたの普段の生活の充実感、満足感を得るためには大切になるでしょう。もしできるなら、自分のやりたいことやワクワクする気持ちに従って、そちらの方向に向かって動いていく。それは、他人の評価は伴わないかもしれません。両親や親しい人にも理解されないかもしれません。すぐにお金にも変わらないかもしれません。

 しかし、あなたの心が求めるならば、そちらの方向に向かうことが、あなたの人生の満足感を高めてくれるでしょう。

 

 

あなたのやりたいことと、世の中の求めるもののバランス

 

 アメリカの神話学者であったジョセフ・キャンベル(1904〜1987)は『神話の力』(2010・早川書房)の中でこう言っています。

「・・・この社会でどう生きるべきかを、社会が私に指図するなんてことを許してはなりません。人は自分自身の体系を築き上げるべきです。たとえそれが社会の期待を踏みにじることになろうとも。時には社会がその体系を邪魔者扱いしようとも。・・・」

 

 私たちが、完全に社会の価値観に従うか、または一方的に社会を無視して自分の価値観にのみに従って生きるか、どちらかを選択するのは、人を長い間にわた幸せにすることはないでしょう。あなた個人の満足や人生時間の充足と社会が求めるものとを調和させる関係を、一人ひとりが築くことが必要です。

 

 

 

私たちは、誰の欲求に応えているのか?

「他人から求められること」と「自分のやりたいこと」

 

 私たちは、他人から求められることと自分のやりたいことの2つのバランスをどのようにとるか。 

 自分のやりたいこと、大好きなこと、才能を活かすことなどの自分の心が高揚することは脇に置いておいて、人から求められることを中心にして生活するだけで人は満足できるのか。

 時代の流れの中で、もっとも華やかな業界や最先端の業界に身を置いて働く。

 我を忘れるくらい会社での評価や他人からの評価を得るために働く。

 自分がどれだけお金を稼げるかを優先にし、家族、友人、自分自身の本心には目を配らず、耳も傾けない。

 上に挙げたようなことは、一見すると社会的には評価が高く羨望の的になることだと思います。これらの行動に人生のエネルギーの多くを注ぐことが、自分の本当の欲求であれば、体にも力が満ちて楽しいことでしょう。その時は、きっと心も満足しているはずです。

 しかし、それが社会的に評価されるという理由でやっているとしたら、もしかしたら注意が必要かもしれません。自分の本当の欲求に自分自身で自覚的に気づけないと、いつも何と無くイライラしたり、頑張って成果が出たとしてもちっとも喜べなかったりするかもしれません。その働き方が、あなたに他人からの評価を持ってきて、一定の期間、幾分かは満足するかもしれませんが、どこか胸に穴が空いたように、せっかくの楽しさや喜ぶ気持ちは抜けていっていしまい、自分の中に満足感が満ちることはないかもしれません。

 

 

他人の基準であなたの人生を生きることの弊害

 

 あなたが本当にやりたいことがあるのに、今、それを生活の中に取り入れていなかったとしたら、本当に毎日を満足感とともに過ごすことは難しいでしょう。

 大自然の中、インターネットも繋がらない場所でひとり生活している人は別ですが、この2019年生きる私たちは、毎日多くの情報に触れています。それこそ大量にです。市場の要求に応える企業、顧客の要求に応えるビジネスマン、上司や同僚の期待に応えようとする会社員、社会の価値観に合わせて日々働くみなさん一人ひとり、人の要求に応えることが普段からあなたの頭の中を占めていませんか?

 それは当然のことともいえますが、あなたの人生の大半の時間が人の要求に応えることに使われているとしたら、なかなか自分の中で満たされた気持ちやゆったりとした時間を味わうことも難しいでしょう。毎日の生活や休日でできることは、他人の要求に応えることで疲れてしまった自分をいたわって、元の自分の状態に戻すことが精一杯かもしれません。

 自分の本当の欲求に気づけなかったり、気づいているのに実行に移せなかったりすると、長い人生の中で何処かにひずみが出てきます。普段の生活の中で、自分自身の全体の一部しか表現できていないのですから。

 仕事を成し遂げたのに思った以上に満足感が低く、次から次に新しい仕事に邁進していく頑張ってしまったり、自分にも他人にも少しのミスを許さないほどに完璧主義になってしまったりする人もいるでしょう。また、ミスばかりしてしまって仕事も人付き合いもうまくいかなかったり、そもそも全く何もやる気にもならない人もいるでしょう。

 私たちは、他人や社会の要求に従って自分自身の欲求を無視して、常に人や誰かが作ったシステムに従属していないといけないのでしょうか?

才能をどのように見つけるか?

才能の見つけ方

 

もしかしたら、今はあなたに才能があることが、信じられないかもしれません。

しかし、ここではひとまず「あなたには才能がある。」ということにしておきたいと思います。

では、実際に自分の才能を、どうやって知ったらいいいのか?

または自分の才能がなんとなくわかっている人ももう少し明確に自分の才能を把握したいというときには、どうしたらいいのでしょうか?

 

才能が「その人個人の特徴・本質であって、自然とできてしまうことまたは自然とやってしまうこと」だとして、それはどのように見つけたらいいのか?

あなたの才能が何か、見つかるヒントとして以下に質問をあげて見ました。

一つ一つの質問に時間をとって考えたり、自分を見つめたりすることで、あなたの才能が何かが見えてくると思います。

 

1.小さい頃に父親または母親から褒められたことは何ですか?

 

2.小さい頃に周りの大人に褒められたことは何ですか?

 

3.特に努力したこともないのに人よりも結果が出ることは何ですか?

 

4.時間が短く感じたり、時間が経つのを忘れるくらい夢中になることは何ですか?

 

5.人に何かをしてあげて、思った以上にお返しをもらったことは何ですか?

 

6.自分が憧れることがやっていることは何ですか?

 

7.人よりも細かいことに気づいたり、こだわってしまうことは何ですか?

 

8.人からよく褒められることは何ですか?

 

9.あなたの家系で割と多くの人がやっていることは何ですか?

 

10.誰かが何かをしているのを見たり聞いたりして、自分よりも才能があると思うことは何ですか?

 

11.他人がやっていることで嫉妬してしまうことは何ですか?

 

12.小さい頃に父親または母親からやっていて怒られたことは何ですか?

 

13.やり出したら人に迷惑をかけると思って自分に禁止していることは何ですか?

 

14.自分が密かに才能があると思っていることは何ですか?

 

と、簡単に自分の才能を明確にする質問をして見ました。

紙とペンを持ってこの質問に答えてみると、今まで気づかなかった自分を見つけるかもしれません。紙とペンでなくても構いません。スマートフォンのメモ帳のアプリを開いて、質問に答えてみると、ずっと忘れていた自分を発見することもあるかもしれません。

 

 

才能を見つける質問に答えるとき、気をつけること

 

 

上にあげた質問の全部に答える必要はありません。

あなたが直感的に気になる質問があれば、その質問から考えてみるのもいいでしょう。

もしかしたら、質問の中には、あなたの思い出したくない過去の記憶を思い出させてしまうかもしれません。その時は、無理に思い出さずに、落ち着いたら別なものからやって見てください。

 

そして、この質問に答えるときに、一つポイントがあります。

それは、自分に制限をかけないこと。

「自分の才能を探す」ということを意識的にし始めると、こんな言葉を自分にかけたくなってきたりします。

「こんなこと書いたらちょっとすごいやつと思われるよな」

「これはさすがに自意識過剰じゃないか」

「昔はあったけど、今はそれほどこの才能はないよ」

「才能もないのに、恥ずかしい」

「子どもじゃないんだから、現実を見ろよ」

と、これくらいにしておきましょう。

要は、才能なんて言葉を聞くと、「自分はそれには見合わない」というプログラムが発動しがちだということです。自分で自分に対して制限をかけてしまいがちということです。

 

「私は自分に対して期待しない」

それはこの質問に答えるときには、一旦忘れてやてみることをおすすめします。

あなたの才能を、探して見ましょう。

 

 

「才能」に関しての誤解。もっと身近なものにする。

「才能」に関する誤解が、あなたの可能性を狭める

 

 

スポーツ選手の才能は突出しています。

例えば、サッカー選手は、目に見えて明らかに才能がある場合、10代になる頃には誰か才能の目利きができる周りにいる大人が、その子の才能を見つけて才能が育つ環境に移してあげる場合があります。もしプロチームの下部組織に入れれば、早ければ、高校生の年代でトップチームの一員として国内のプロリーグで試合をします。さらに進むと、20歳前後で世界のトップリーグのチームに移籍したりもします(先日もイングランドのプロサッカーリーグのマンチェスター・シティに21歳で移籍したサッカー選手がいます。元日本代表でW杯に出場した中田英寿選手もイタリアリーグに移籍したのは20歳のときでした)。

 

と、プロスポーツ選手の才能を、サッカー選手を例にあげて見ましたが、これは本当にほんの一握りの中のひとつまみのような例です。このようなケースについて、「あの人は才能がある」というわけです。

もちろん、このような才能の原石がピカピカに輝くくらいになるには、切磋する仲間や、才能を育てるための努力を自分や周りの人がしているでしょう。

日本のプロ野球から、アメリカのメジャーリーグへ渡った大谷選手も、大体の同じようなプロセスがあったのだと思います。

しかし、こういう稀に見るレアなケースで、「才能がある」と言葉が使われてしまうので、世界で活躍するトップクラスの状態でない才能は、「才能がない」とは表立って言われないものの、才能があるとははっきり言われることが少ないように感じます。その才能を持っていない一般の人よりは、明らかに才能がある、のにです。

むしろ、逆に、あまりにギラギラ輝く才能を持っている人が社会にいるがゆえに、他の才能がある人たちに対しては、人は才能がないという認識を無意識に持ってしまうように感じます。

しかし、「才能」とはもっと、私たちにとって(もちろんあなたにとっても)もっと身近で親近感のあるものです。才能とは、ごく一部の人たちの特別なものではなく、もっと私たちがもともと持っている民主的なものだと思います。

「才能とは何か」ということを考えてみると、その意味を、この社会のある分野で唯一無二であったり、10年に1人しか発見できないものに制限してしまうと、とってももったいない。私たち一人一人には、人よりもうまくできることや、自然と体が動く好きなものがあります。「才能」に関して、ものすごく特別なものと制限して理解することは、あなたやあなたの周りの人の才能を、発見しにくくしてしまうかもしれません。

 

 

才能を掘り起こす、才能が湧き出る、才能を磨く、才能を育てる

 

 

「才能がある」と聞いたとき、人はその人に突出した能力があるように感じます。

ごく一部の限られた人が持っているもの、という認識や理解です。

例えば、「才能がある人とは」と質問されると、特にマスメディアに露出が多いプロスポーツ選手、芸能人をイメージするでしょうか。最近では、有名な経営者、注目を集める起業家、ユーチューバーなどは、多くの人の目に触れて共通認識としてアイコンになりやすいでしょう。

また、才能そのものが、多くの人々に共通するものではないですし、全ての才能が誰の目にも見えてわかりやすいものでもありません。さらにいえば、あなたや私たちが持つ才能を全て同じ評価基準で共通の指標として数値化するということも、現時点では、難しいでしょう。それは、才能というものが、個人ひとりひとりのオリジナルなものだからです。

少しくどいかもしれませんが、別な観点から言えば、「才能」に紐づいてよく使われる表現も様々です。「才能を掘り起こす」「才能が湧き出る」「才能を磨く」「才能を育てる」「才能を守る」など。才能があると言われたときに、「分野」なのか「特定の行為」なのかも今ひとつはっきり使い分けがされていないかもしれません。

 

以上、これまで、才能に関する私たちの理解や認識について、考えてみました。

まとめると、以下の通りでしょうか。

・「才能」とは、ごく一部の人が持つ特別なものという制限された理解をしている。

・才能は個人にオリジナルなものであって共通した基準での評価や数値化が困難。

・人が持つ才能というイメージもバラバラ。

ここでは、一般的な才能のイメージや認識ではなく、もう少し拡大してその意味を広げたいと思います。それが、私たちにとって、ちょっとした元気をくれるように思うからです。

「才能とは、その人個人の特徴・本質であって、自然とできてしまうことまたは自然とやってしまうこと」と、ひとまずしておきたいと思います。

 

 

人が人生を歩んでいくとき、自分の才能が何かを知ることは大切

 

 

人生100年時代。最近よく聞かれるようになりました。

第二次世界大戦が終わって間もない頃の日本の平均寿命は、50歳ほどでした。

その後平均寿命がのびて、世界的に見て日本は長寿国となり、平均寿命は男女ともに80歳ほどになりました。

そして、現在、まだ平均寿命は100歳までは至っていませんが、「人生100年時代」と言われるようにまでなりました。

人それぞれの個人差はあるでしょうが、おそらく、いまを生きる私たちは、かつて私たちが想像した以上に人生を長く生きることになるでしょう。その間に、私たちが望む望まないとに関わらず、入学、卒業、就職、転職、退職、独立、結婚、離婚、出産など、いくつかのライフイベントが起こります。

あなたがこの人生で、何をするか、何をしないのかを決めるのは重要なことです。どう生きるのかは、あなたに自由があります。しかし、自分自身からはどこまで行ってもは離れられず、いつも一緒です。その中で、自分にどんな才能があるのかを知り、しっかり自分のものとし、ときに見直すことは人生を彩り豊かなものにしてくれるでしょう。

 

 

あなたに何か才能はあるか。それとも、どんな才能もないのか。

あなたに才能はあるか?

 

 

「あなたにはどんな才能がありますか?」

そう聞かれて、あなたはどう感じますか?

 

「もちろん。私はもう自分の才能を活かして仕事をしてるよ」

「俺には才能なんかない。けど、自分の努力でなんとか結果を出せる」

「私なんかに人より抜きん出た才能はない」

「自分の才能なんて、考えてもさっぱりわからない」

 

人それぞれいろんな感じ方があるでしょう。

あなたはこの中では、どれが一番しっくりきますか?自分に才能があるのか、それともないのか。どのように考えるのもあなたの自由です。

しかし、あなたの個人的な思い込みであったり、あなたが才能に対してどんな気持ちを感じていたとしても、「あなたの才能」はあなたの中に眠っているはずです。

 

 

「才能がない」よりも「才能がある」と思っておいたほうがいい

 

 

仮に、あなたに才能がない、としましょう。

あなたには、どんな分野についても才能と呼べるものが全くない、ということです。

あなたは、どう感じるでしょうか。自分に全く才能がないと考えると、いくら頑張っても自分自身が大きく成長する感じがせず、絶望的な気分になるかもしれません。また、人数としては少ないかもしれないですが、全く逆に、自分に対する期待がなくなって、気持ちが楽になる人もいるかもしれません。

けれど、人の寿命が延びて、個人の人生が100年に届く社会を生きることになる私たちにとっては、その一生を自分はなんの取り柄もない、才能もない人間として生きるのは、ちょっと気持ちの上で苦しい感じがするでしょう。普段の日常的な生活の中でも、仕事や家族、そのほかの人間関係やお金などでストレスを感じている状態で、未来に対する可能性まで、いま、狭められる感じは、息苦しさや重苦しさを増してしまいます。

 

一方で、私には才能がある、と仮定しましょう。

こちらは、どう感じるでしょうか。

あなたには、才能がある。必ず才能はある。

これまで人から何かの才能があると言われたことがないとしても、自分自身でも人より得意なことや好きなことがわからなかったとしても、あなたの主観的な意思とは別なところに、あなた特有の才能はある。しかし、あなたは、それにまだ気づいていないし、普段接する人もその才能に気づいていない。これまであなたと時間を共にした人も、あなたの才能に気づいていない、ということです。

あなたは、まだ見つけていない自分の才能に気づくことができます。あなたは、才能に気づいていない自分から、なんらかの才能を持った新しい自分に出会う可能性が、あることになります。

あなたは、どちらを選択しますか。